
Photo: facebook.com/jad.fair
ハーフ・ジャパニーズのデヴィッド・フェアが亡くなった。
デヴィッド・フェアの訃報は1993年公開のドキュメンタリー『ハーフ・ジャパニーズ – いずれ王者になるバンド』を監督した長年の友人であるジェフ・フュールジークによって発表されている。バンドメンバーで、兄弟のジャド・フェアは訃報を受けて、子どもの頃の写真をフェイスブックに投稿している。
友人で、かつてハーフ・ジャパニーズのメンバーでもあったプロデューサーのドン・フレミングによると、デヴィッド・フェアは現地時間8月29日、娘のハーパーがルートビア・フロートで乾杯してくれた直後に安らかに息を引き取ったという。ドン・フレミングはデヴィッド・フェアがここ数年ガンの治療を受けていたことも明かしたが、死因は公式には発表されていない。
ドン・フレミングは「素晴らしいユーモアのセンスを持った素敵な人物だった。純粋なアーティストでありミュージシャンで、すべてを心から表現していた」と述べている。
デヴィッド・フェアとジャド・フェアは1970年代半ばに家族がミシガン州からメリーランド州ユニオンタウンへ移住した後に音楽活動を共に始め、やがて自宅でのレコーディング・セッションをハーフ・ジャパニーズとしての活動へと発展させていった。
兄弟はどちらも既存の慣習にはほとんど関心がなく、楽器を持ち替え、伝統的なチューニングや楽曲構成を無視し、正しい演奏法よりも、ありのままの音や溢れ出る想像力を重視するという信念のもと、初期の音源を制作している。
その哲学はやがてデヴィッド・フェアが執筆し広く読まれることとなったエッセイ『ハウ・トゥ・プレイ・ギター』に集約されている。「コードを無視すれば、選択肢は無限に広がり、一日でギターをマスターできる」とデヴィッド・フェアは述べている。ハーフ・ジャパニーズの意図的な奔放なアプローチは、ローファイやDIYロックの初期の雛形となり、そのサウンドに可能性を見出した後続の世代のアーティストたちに影響を与えている。
ハーフ・ジャパニーズは1977年発表のEP『コーリング・オール・ガールズ』でデビューした後、1980年発表のアルバム『ハーフ・ジェントルメン / ノット・ビースツ』で本格的なデビューを果たしている。デヴィッド・フェアは『ラウド』、『アワー・ソーラー・システム』、『シング・ノー・イーヴィル』といったアルバムで主要なメンバーとして活動を続けたが、1987年に脱退している。
その後もデヴィッド・フェアはバンド外でジャド・フェアとのコラボレーションを続け、10年以上ぶりのアルバムとなった2014年発表の『オーヴァージョイド』など、折に触れてハーフ・ジャパニーズに復帰している。
ニルヴァーナのカート・コバーンも彼らの熱心なファンの一人であり、1993年のニルヴァーナの『イン・ユーテロ』ツアーではハーフ・ジャパニーズをオープニング・アクトに迎えている。また、彼らの徹底した手作りのスタイルはソニック・ユース、ダニエル・ジョンストン、ビート・ハプニング、ニュートラル・ミルク・ホテルといったアーティストたちに影響を与えている。
デヴィッド・フェアはハーフ・ジャパニーズ以外でも精力的に活動を続け、自身の名義やクー・クー・ロッキン・タイムといったプロジェクトで作品を発表している。
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