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ザ・スペシャルズの伝説的フロントマンであるテリー・ホールが亡くなった。

ソーシャル・メディアでザ・スペシャルズはテリー・ホールが「短い闘病」の末に享年63歳で亡くなったことを発表している。ザ・スペシャルズは「美しい友人にしてブラザー、この国が生んだ最も卓越したシンガーにしてソングライターにして作詞家の1人」と評している。

ザ・スペシャルズは次のようにツイートしている。「大きな悲しみと共に、美しい友人にしてブラザー、この国が生んだ最も卓越したシンガーにしてソングライターにして作詞家の1人であるテリー・ホールが短い闘病の末に亡くなったことを発表します」

「テリーは素晴らしい夫や父親で、やさしくて、愉快で、真の魂の持ち主でした。彼の音楽、彼のパフォーマンスにはその人生の本質が凝縮されています。喜び、痛み、ユーモア、正義のための闘い、しかし最大のものは愛です」

「彼を知る人々、彼を愛した人々に深く惜しまれるでしょうし、優れた音楽と深い人間性という贈り物を残してくれるでしょう。テリーはよく人生を肯定するザ・スペシャルズのステージを3つの言葉で締めくくって、ステージを去っていました。『ラヴ、ラヴ、ラヴ』」

「この非常に悲しい時は家族のプライバシーを尊重していただければと思います」

テリー・ホールは1959年3月19日にコヴェントリーで生まれ、音楽でのブレイクの前に波乱万丈の幼少期を過ごしている。2019年に『NME』に語ったところによれば、彼は12歳の時にフランスで小児愛者の組織に誘拐され、その結果、ヴァリウムの依存症に陥ったという。

彼は15歳の時に学校を中退して、レンガ積みや美容師などの日銭稼ぎをした後に70年代後半にかけてコヴェントリーの音楽シーンに関わっていくことになる。

スクアッドというパンク・バンドで短期間活動した後、テリー・ホールは1977年にシンガーのティム・ストリックランドに代わってコヴェントリー・オートマティックスに加入している。直後にザ・スペシャルズと名前を変え、1979年にプリンス・バスターの“Al Capone”をサンプリングした“Gangsters”でトップ10ヒットを放っている。自身の名前を冠したデビュー・アルバムは1979年10月にリリースされ、セカンド・アルバムの『モア・スペシャルズ』はわずか11ヶ月後の1980年9月にリリースされている。

テリー・ホールは1981年にザ・スペシャルズを脱退したが、2008年にギタリストのロディ・ラディエーション、ドラマーのジョン・ブラッドベリとバンドを再結成させている。待望のカムバック・アルバム『アンコール』は2019年にリリースされている。ザ・スペシャルズを再結成させるまではファン・ボーイ・スリー、ザ・カラーフィールド、ヴェガス、テリー・ブレア&アヌーシュカといったグループで活動していた。

テリー・ホールは1994年発表の『ホーム』、1997年発表の『ラフ』という2枚のソロ・アルバムもリリースしており、ライトニング・シーズ、シネイド・オコナー、ザ・ダブ・ピストルズ、ゴリラズ、デーモン・アルバーン、D12、トリッキー、リリー・アレンといったアーティストともコラボレーションしている。

今年もザ・スペシャルズとしての活動は行われ、最後のライヴは8月20日にデヴォンのエスコット・パークで行われた公演となった。ザ・スペシャルズの最後のリリースは昨年9月にリリースされたコンピレーション作『プロテスト・ソングス 1924-2012』となっている。

2019年の『NME』のインタヴューでテリー・ホールはバンドをやるモチヴェーションについて「人を怒らせるため」と冗談を飛ばしている。自身の左翼的な政治観は西インド、ウガンダ、北アイルランドからの移民が急増した学校時代に形成されたとも語っている。

訃報を受けて追悼の声が寄せられており、元ザ・スペシャルズのネヴィル・ステイプルは次のようにツイートしている。「日曜日にテリー・ホールが亡くなったと聞いて深く悲しんでいます。エジプトに着いた時に電話をもらったのです」

「テリー・ホールが元気ではないことは知っていましたが、最近までここまで深刻だとは分かっていませんでした。分かっていたのは2023年に一緒に音楽をやろうと同意していたことでした。つらいです」

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