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私たちはあまり自画自賛するのは好きではないけれど、これまでの63年間の『NME』の歴史においては、かなり伝説的と言える表紙がいくつかある。国民を二分する対決の端緒となったブラーVSオアシスのヒットチャートでのバトルから、心揺さぶられる音楽界の最重要人物たちの死亡記事まで、私たちは常にファンのために前線に立ち続けてきた。過去の『NME』表紙1〜25位、読者投票の結果を以下に発表する。

25位 デボラ・ハリーとアンディ・ウォーホル

01
1986年1月11日号
ポップ・アートの鬼才アンディ・ウォーホルとブロンディのフロントウーマン、デボラ・ハリーの夢の共演。デボラ・ハリーは以前にもアンディ・ウォーホルに描いてもらったことがあったが、当時再びチームを組んだ。しかし、これが亡くなる一年前のアンディ・ウォーホルの最後のインタヴューの1つとなってしまった。


24位 ブラー

02
1994年6月25日号
ハロー、ハロー、デーモン! この1994年の表紙は、ブリットポップの頂点に立つデーモン・アルバーンとして生意気盛りのカリスマを手に入れたなら、あとは生垣に顔を突っ込むだけだということを証明している。ブラーというバンドの独特なユーモアのセンスがパーフェクトに表れている。


23位 モリッシー

03
1988年2月13日号
1988年の2月13日、そう、モリッシーが『NME』のヴァレンタインを飾った。ちょうどホールマーク社お気に入りの金儲けの日に極めつけの誘惑するポーズだ。ドキドキするよね?


22位 ビョーク

04
1993年8月14日号
ソロ・アルバム『デビュー』と共にビョーク・グズムンズドッティルはカルト・バンドのリーダーから奇妙でエーテルみたいなスーパースターへ変貌した。彼女のレコードの繊細なトリップ・ホップのサウンドが、ここでは野太い叫びのイメージを押し出している。気の利いたダジャレもちょっと褒めたい。


21位 ダフト・パンク

05
2013年5月14日号
2013年、ロボットが世界を制した。近年で最もインパクト大の夏のアンセムとも言うべき“Get Lucky”で劇的に活動再開したダフト・パンクは、当時一番ホットで、チケットが手に入りにくいアーティストだった。『NME』は独占インタヴューのために彼らを追った。


20位 ザ・スリッツ

06
1978年10月7日号
『NME』のニック・ケントが当時16歳のアリ・アップの個人的な部分まで深く迫り、物議を醸した。セックス、成功、そしてザ・スリッツの力強いサウンドについてのインタヴュー。


19位 ジョー・ブランドとパルプ

07
1994年4月9日号
パルプがリリースした、セックス中毒のようなアルバム『彼のモノ・彼女のモノ(His ‘n’ Hers)』と同アルバム収録のヒット・シングル“’Do You Remember The First Time”を祝福するべく、『NME』はジャーヴィス・コッカーにジョー・ブランドと枕を並べてもらい、トイレで童貞喪失した経験など下品な悪ふざけの話をしてもらった。


18位 セックス・ピストルズVSビル・グランディー

08
1976年12月11日号
生殖器と失禁のダジャレに非難轟々だったあのイノセントな時代、料理対決ショウ「グレート・ブリティシュ・ベイク・オフ」もまだやっていなかった時のことだ。セックス・ピストルズは「ファッカー(この野郎)」、「バスタード(バカ野郎)」そして「タフ・シット(お気の毒様)」とお茶の間に叫んで世間を激震させた。『NME』はこのクラシックな号で彼らの激烈な言葉をカタログにした。


17位 ザ・クラッシュ

09
1977年4月2日号
伝説の人物、トニー・パーソンズによるインタヴュー。彼は「このバンドは他のどのバンドよりもちゃんと僕らの人生、あの激動の70年代に若者であるということがどんなものなのかを物語っているんだ」と主張した。


16位 ジョン・レノン

10
1980年12月13日号
ニューヨークでジョン・レノンが銃撃された後に『NME』が出した追悼特集。ジョン・レノンに起きた悲劇、そして世界の嘆きを伝えている。


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