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ソウルの女王、「ヴォイス・オブ・ブラック・アメリカ」、レディ・ソウル、今を生きる人々にとって最も偉大なシンガーの筆頭――現地時間8月16日に76歳でこの世を去ったアレサ・フランクリンは、時代を定義した数少ないアーティストの1人としてのみならず、時代を超越して社会に変化をもたらした重要人物の1人として音楽の歴史に名を刻むことになるだろう。

“Respect”や“(You Make Me Feel Like) A Natural Woman”、“Think”、“Spanish Harlem”といった楽曲での輝かしく力強いパフォーマンスは、60年代末から70年代の初頭にかけての情熱的なソウル・ミュージックのスタンダードになったことに止まらず、アレサ・フランクリンはそれによってフェミニズム運動や公民権運動のアイコン的な存在となった。敬意や理解を希求する彼女の熱を帯びた歌声は、平等を求めるカウンター・カルチャーの潮流と調和し、100のシングルを全米シングル・チャートに送り込んで、史上最も楽曲をチャートにランクインさせた女性となった彼女は、希望と熱望のシンボルとなった。

「アレサが歌うと、アメリカの歴史が浮かび上がってくるのです」とバラク・オバマ前アメリカ大統領は2015年に語っている。「困難や悲しみを、美しさや活力、希望の詰まったものに変化させた彼女以上に、アフリカン・アメリカンの精神と、ブルースやR&B、ロックンロールの繋がりを体現できる人はいません」

アレサ・ルイーズ・フランクリンは、1942年3月25日にテネシー州メンフィスで神父の父親とピアニストでシンガーの母親との間に生まれている。アレサ・フランクリンは耳でピアノを学び、10歳を迎える頃には教会で1人で歌声を披露するまでになっているが、その間には多くの転居や両親の離婚、そして母親との死別を経験している。「100万ドルの歌声を持つ男」と自称する彼女の父親は、教会での説教で数十万ドルを稼ぎ、サム・クックやジャッキー・ウィルソン、マーティン・ルーサー・キングからの訪問を受けるほどの人物だった。アレサ・フランクリンが14歳になると、父親が彼女のマネージャーを務めるようになるのが、彼女はこの時すでに、父親にちなんでクラレンスと名付けた息子の母親となっていた。父親の援助もあって、彼女はJVBレコードと契約を結ぶこととなり、1956年にはデビュー・アルバムとなる『ソングス・オブ・フェイス』をリリースしている。サム・クックに傾倒していた彼女は、非宗教的なポップ・ミュージックのアルバムを作りたいと思うようになり、後のモータウンとなるタムラやRCAを初めとした数多のレーベルによる争奪戦の末に、当時18歳だった彼女は1960年にコロムビア・レコードと契約を結んでいる。

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コロンビアに移籍したアレサ・フランクリンは全米チャートにも進出するようになり、1961年に“Rock-A-Bye Your Baby With A Dixie Melody”のカヴァーで初めて全米シングル・チャートのトップ40入りを果たしたのを皮切りに、R&Bのチャートにも数々のヒット曲を送り込むことになるが、キャリアのピークが始まるのは、1966年にアトランティック・レコードに移籍してからのことだった。アレサ・フランクリンは、1967年の前半だけで最初の大ヒット曲となった“I Never Loved A Man (The Way That I Love You)”と“Respect”の2曲を世に送り出しているのだが、後者は彼女に初の全米シングル・チャートの1位をもたらし、フェミニズムや公民権運動のアンセムとなった。『貴方だけを愛して』や『レディ・ソウル』、『アレサ・ナウ』といったアトランティック・レコーズ時代の初期のアルバム群からは、“Think”や“(You Make Me Feel Like) A Natural Woman”、“Chain Of Fools”などの伝説なヒット曲も生まれているが、それらはすべてプロデューサーのジェリー・ウェックスラーとの魔法のような共同作業によって誕生している。世間に衝撃を与えたアレサ・フランクリンは『タイム』誌の表紙を飾るまでになり、マーティン・ルーサー・キングの葬儀で歌を捧げるという名誉にもあずかっている。

アレサ・フランクリンの成功は1970年代に入っても続くことになり、1972年にリリースしたゴスペル・アルバム『アメージング・グレイス』は200万枚を売り上げ、サンフランシスコの伝説的なライヴ会場であるフィルモア・ウェストでヘッドライン公演を行った最初のR&Bアーティストにもなっている。その後にアトランタ・レコードからリリースしたアルバムのセールスは乏しくなかったが、1980年にアリスタ・レコードに移籍してからは“Who’s Zoomin’ Who?”や“Freeway Of Love”などのポップな曲がヒットし、ユーリズミックスとの“Sisters Are Doin’ It For Themselves”やジョージ・マイケルとの“I Knew You Were Waiting For Me”といったコラボレーションの成功もあり、見事にキャリアを復活させることに成功している。アレサ・フランクリンは20年以上にわたって在籍したアリスタ・レコードでソウル・ミュージックの大御所としての評価を確立した後、2004年にレーベルを離れて以降も、2006年にはスーパーボウルで国歌斉唱を行っているほか、オバマ大統領の就任式でもパフォーマンスを行い、2015年に行われたケネディ・センター名誉賞の授賞式ではキャロル・キングらを称えるパフォーマンスを行っている。

アレサ・フランクリンのプライヴェートな人生もまた、彼女のキャリアと同じくらいの波乱に満ちている。彼女は19歳の時にセオドア・ホワイトと最初の結婚をしているが、家庭内暴力のために1969年に離婚している。1987年には俳優のグリン・ターマンと2度目の結婚をして6年間の婚姻生活を送った後、婚約までしていた長年のパートナーのウィリー・ウィルカーソンとは2012年に婚約を解消している。アレサ・フランクリンはアルコールやタバコの依存にも悩まされており、2010年には病名の明かされていない手術のために公演をキャンセルしている。健康問題を理由にした公演のキャンセルはこの10年の間に続いており、2017年にはデトロイト公演の観客に「私のことを祈っていて」と語りかけていた。アレサ・フランクリンは、4人の息子と、史上最も影響や衝撃を与えたとも言える、心を打つソウル・ミュージックの聖典を残してこの世を去ることになった。

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