StoneRoses

Photo : DEAN ROGER/PRESS

もし、イベントの一週間前になって身動きのできないトラブルに陥ったとしたら…。先週末、スウェーデンのヨーテボリ公演中のフー・ファイターズは、デイヴ・グロールがステージから落下するという悲劇に襲われた。彼が説明しているように「ちょっとイカしたフレーズをキッズの目の前で弾こう」として、ステージの前端に走り寄ったデイヴだが、約4メートル近い高さから地面に落下し、脚を骨折するという大惨事となった。後日、公式フェイスブックなどで公開されたレントゲン写真を見てみると、粉々と言っていいほど腓骨がくだけており、見るからに痛々しい状態だった。現在は骨折部を6ヶ所のボルトで固定しているが、残念なことに、フー・ファイターズはウェンブリー・スタジアム公演と、ヘッドライナーを務める予定だったグラストンベリー・フェスティバルの2公演をキャンセルせざるを得なくなった。そして代わりにフローレンス・アンド・ザ・マシーンが、急遽ヘッドライナーを務めることが発表された。そこで今回は、ヘッドライナーが突然交代となった過去のグラストンベリー・フェスティバルを振り返ってみるとする。

1970年 ザ・キンクスからT・レックスへ

記念すべき第1回目のヘッドライナーを務めたのは、ザ・キンクスの代打として登場したT・レックスだ。元々グラストンベリー・フェスティバルは創設者のマイケル・イーヴィスが「ピルトン・ポップ・ブルース・アンド・フォーク・フェスティバル」という名のもと、入場料1ポンドで始めた音楽祭であり、『メロディー・メーカー』誌では「ミニ・フェスティバル」とも称された。T・レックスは単なる交代要員としての活躍に留まらず、それ以降のフェスティバルのスタンダードを引き上げる結果をもたらした。創設者のイーヴィスは、当時のステージの模様について、フェスティバル史上、最も記憶に残る一コマだったと述べている。1500人の観客を前に熱演したT・レックスは、これをきっかけに全盛期への道を歩み始め、演奏した“Ride A White Swan”も全英のシングル・チャートの1位にあと一歩というところまで来ていた。イーヴィスはまた次のようにも語っている「あれこそ究極のロックンロール・ライヴだ。マーク・ボランはまさにプロフェッショナルだ。あれは私の人生で最高のライヴだったね」

1993年 レッド・ホット・チリ・ペッパーズからレニー・クラヴィッツへ

90年代には3度のヘッドライナー交代があった。その一つ目がレニー・クラヴィッツだ。当時の『NME』に記載されたフェスティバルのレヴュー記事で、彼は次のように酷評されている。「いかさま野郎だ。ヘンドリックスの神話を食い物にした、二流の替え玉にすぎない」。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーが慢性疲労症候群になったため、レニー・クラヴィッツが代わりを務めることになったわけだが、彼は全く人気のないヘッドライナーというわけではなかったようだ。何千人ものファンが彼を見にやって来て、ラストの曲“Let Love Rule”の時には観客同士、自然と腕を組んで一緒に歌っていたという。

1995年 ザ・ストーン・ローゼズからパルプへ

ジョン・スクワイアがマウンテンバイクで転倒して鎖骨を骨折したため、この年ストーン・ローゼズはキャンセルを余儀なくされた。そこで思いがけない形で繰り上がりメインストリームへと乗り出すことになったのがパルプだった。フロントマンのジャーヴィス・コッカーはこのキャリアを決定付ける夜に誰が見ても勝利してみせたが、彼は記念に観客の写真を撮った後、次のように発言している。もし俺みたいな“痩せっぽちの間抜け”がグラストンベリーでヘッドライナーをやり切れるんだったら、誰にだってできるさ。その頃、ちょうど“Common People”は大ヒットを記録し、この4カ月後に発売されたアルバム『ディファレント・クラス』も、この夜のパフォーマンスに導かれる形で大ヒットを記録した。フェス共同運営者のエミリー・イーヴィスは、2010年に当時のことを次のように回想している。「パルプは1万人の集まる会場でこの困難な状況を見事くつがえし、観客を大いに沸かせたわね」

1997年 スティーヴ・ウィンウッドからアッシュへ

1997年のグラストンベリーでは、3日目のヘッドライナーを務める予定だったスティーヴ・ウィンウッドが直前になって降板し、そこで急遽、すでに金曜夜に「アザー・ステージ」のトリを務めていたアッシュが、日曜の「ピラミッド・ステージ」にも出演することになったのだ。『NME』のジョニー・シガレッツは同情を込めて次のように記している。「ポール・ウェラーや、長いこと姿をくらませていたレジェンド第492番とも呼ぶべきスティーヴ・ウィンウッドらは、家で毛布にくるまってココアでも飲みながら、テレビで『ソングス・オブ・プレイズ』でも見ていたに違いない」。実際のところ予想もできなかった展開ではあったが、アッシュの3人は、初々しい10代に鮮烈なデビューを飾ったアルバム『1977』の楽曲を大観衆の前で演奏し実力を見せつけた。当時の『NME』はこう書いている。「輝かしいほど狂ってて、とんでもなく速いパンキッシュなステージ……脱帽だよ」

2005年 カイリー・ミノーグからベースメント・ジャックスへ

この年、カイリー・ミノーグは乳がんの診断を受けたことを公表し、フェスから降板した。代わりにヘッドライナーを務めたベースメント・ジャックスは、カイリーの“Can’t Get You Out Of My Head”をトリビュートとしてカヴァーし、それに続けてスコットランドの詠唱風に「2、4、6、8、俺たちが好きなのは……カイリー!」と叫んでみせた。セットリストは大好評で、最後は名曲“Where’s Your Head At?”で幕を閉じた。とはいえこの日を振り返ると、直前のあの事件のせいで、彼らの影が薄れて見えてしまうのは否めない。プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーは誰かれ構わず「お前ら、カイリー・ミノーグを見たかったのか? くそったれが!」と叫び散らし、挙句の果てにナチス式の敬礼までしたのだ。その後もその場に居座り続け、ベースメント・ジャックスがステージに上がるのを邪魔したため、最終的には電源が落とされ、ギレスピーはステージから引きずり降ろされるという結末に終わった。

2010年 U2からゴリラズへ

ボノが腰痛を訴えたため、U2はヘッドライナー出演を翌年のフェスに持ち越すことになった。その穴を埋める形でこの年のヘッドライナーを務めたのが、船員の格好で登場したカートゥーン・バンド、ゴリラズだ。バンドを率いるデーモン・アルバーンは、前年のブラーとしての印象的なショウに続き、2年連続でヘッドライナーを務めることとなった。U2との交代を受けてデーモンはこう語っている。「グラストンベリー・フェスティバルは、単にネームバリューやステータスのために出るものじゃない。この土地では何千年も前から音楽の祭典が行われていて、このフェスはそれを引き継ぐものなんだ」。この年、錚々たる顔ぶれがゴリラズと共演し、そこにはハッピー・マンデーズのショーン・ライダー、ザ・フォールのマーク・E・スミス、スヌープ・ドッグ、故ルー・リードや故ボビー・ウーマックらも含まれる。このユニークな架空バンドのヘッドライン・アクトに対する観客の反応はパッとしないものだったが、『NME』は「今夜集まった人の中で、誰もこのような状況に遭遇したことはないだろう。それがどれほど稀有なことかを考えると、勇気づけられる」とその意外性を称賛した。(ラリー・バートリート)

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