ポップ・ミュージックの歴史においても数少ないパンドラの匣の一つが開いたと言ってもいいかもしれない。映画『レット・イット・ビー』のためにマイケル・リンゼイ・ホッグが撮影した60時間以上の映像と150時間の音源がドキュメンタリー『ザ・ビートルズ:ゲット・バック』として遂に日の目を見ることになった。撮影が行われたのは1969年1月。そこから考えれば、52年以上の年月を経て公開されることになった。当時、ジョン・レノンとリンゴ・スターは28歳、ポール・マッカートニーが26歳、ジョージ・ハリソンは25歳だった。誰しもが『ザ・ビートルズ:ゲット・バック』について不思議に思うのは、なぜそんなにも長い間、この映像がお蔵入りになってきたのに、今回公開されたのかということだろう。そんなことを考えながら、3編合計468分にも及ぶ映像を観させてもらった。
まずは、これまでの経緯を振り返ると、映画『レット・イット・ビー』は1980年代以降、正式には映像商品として販売されなかったことから海賊版が市場には流通し、未発表映像を使った映像作品が制作されるのではという噂は数十年前から持ち上がっていた。それがアルバム『レット・イット・ビー』の40周年となるのか、もしくは50周年となるのか、具体的な状況は見えなかったのだが、大きく状況が変わったのは2018年のようだ。ピーター・ジャクソン監督が手掛けた映画『彼らは生きていた』が公開されたのがこの年だが、この映画は帝国戦争博物館が所有する第一次世界大戦の映像を利用して製作されたもので、何よりも注目されたのはその映像の修復技術だった。モノクロのフィルム映像を原題のテクノロジーによって本来の色に着色し、鮮やかに復活させるということをこの作品は実現していた。
『彼らは生きていた』のワールド・プレミアは2018年10月だったが、その1ヶ月前にポール・マッカートニーは次のように語っている。「スタッフたちは映像を観ているようなんだ。56時間くらいの映像が収められているんだけどさ。この前、一人にこう言われたんだ。『全体的な雰囲気はすごく楽しくて、高揚感のあるものになっています。音楽制作を楽しんでいるように見えるのです』とね」この発言を考えると、早い段階でザ・ビートルズ側は今回のコンセプトを考え始めたことが分かる。そこからピーター・ジャクソンは『ザ・ビートルズ:ゲット・バック』に取り掛かることになる。
そして、4年も編集に携わったという画期的な修復技術を駆使した『ザ・ビートルズ:ゲット・バック』が完成したわけだが、確かにその映像の美しさたるやすさまじい。ザ・ビートルズの4人はもちろんのこと、ずっとジョン・レノンの傍にいるオノ・ヨーコも、リンダ・マッカートニーも、ジョージ・マーティンも、救世主的なビリー・プレストンも、機材にしても、レコーディング技術にしても、これだけ美しい映像で至近距離で残っている映像はなかなかなく、その情報量は途轍もないものだ。そうした点に関しては自分以上に適切に情報を解析される方がいらっしゃるだろう。本当にちらっとだが、メンバーが日本の印刷物を見ている映像なども登場する。ただ、最初にも述べた通り、自分としては観ながらずっと考えていたのは、なぜこれだけの映像が50年以上も実質的に放置されてきたのかということだった。『ザ・ビートルズ:ゲット・バック』の最大のミステリーはそこだろう。
自分の観た感想としてはそれは映像の「とりとめのなさ」ゆえだと思う。行きあたりばったりとも見えるプロジェクトに参加することになったザ・ビートルズはアルバムがなかなか進まない状況が続き、ジョージ・ハリスンがバンドを離脱する事態にまで発展し、プリムローズ・ヒルで考えていたライヴも実現できなくなり、ロック史上最大のバンドでありながら、最終的に自分たちの所有していたアップル社屋の屋上で半ば場当たり的に最後のライヴを行うことになる。その過程で記録されたのは「とりとめのない」ザ・ビートルズの姿だった。事実、2008年の時点で映画『レット・イット・ビー』をDVDで再発する話が持ち上がったものの、ポール・マッカートニーとリンゴ・スターの要望によってこの話はなくなったと言われている。
でも、今回、ポール・マッカートニーとリンゴ・スターはその「とりとめのなさ」をザ・ビートルズの終末期の映像として観せることに同意した。報道を見ると、ザ・ビートルズの解散の原因を負わされてきたポール・マッカートニーの意向は大きかったのだと思う。ジョン・レノンは1969年9月にザ・ビートルズを脱退することを個人的に伝えていたが、その後、ポール・マッカートニーはソロ・デビュー・アルバムの発表の際にもうザ・ビートルズとは仕事をしないとして、解散を世間に明かしたことで解散の元凶とされてきた。でも、その前の実態は世間で思われているほどシリアスなものではなく、敢えて言えばはしゃいでいたと言ってもいいものだった。50年以上経った今であれば、その姿を見せてもいいのではないか、むしろ見せるべきなのではないか、そうザ・ビートルズの残されたメンバーは考えた。
そして、様々なところで言われている通り、本作のクライマックスは42分の全編が収録されたルーフトップ・コンサートだ。そもそも、このレコーディングと映像のプロジェクトの始まりはハンブルクやキャヴァーン・クラブで行っていた初期時代のライブ・パフォーマンスのエネルギーを取り戻したい、そのために観客を入れたライヴの現場でニュー・アルバムをレコーディングしてしまおうというものだった。実際、ハンブルク時代は1日8時間も演奏していたという。私たちのほとんどが観たことのないライヴバンドとしてのザ・ビートルズ、それがクリアな映像で今回甦っている。このセッションについては音源化されているものもあり、何度も検証されてきたので言うまでもないけれど、決して世紀の名演というようなものではない。ただ、なし崩し的な状況の中で本番に挑み、このプロジェクトの「実像」を知った上で観るライヴ・パフォーマンスはなぜザ・ビートルズがザ・ビートルズだったのかを知る大きな手がかりとなっている。今回の修復を経て、ザ・ビートルズのライヴ映像としては非常に貴重な内容のものとなった。
新型コロナウイルスのパンデミックがあり、当初の劇場公開という形がなくなり、『ザ・ビートルズ:ゲット・バック』はディズニープラスでの3編配信という形になった。この記事を書いている時点ではピーター・ジャクソンが劇場公開用にまとめた映像は観ていないので、この変更がどんな効果を及ぼしてたのかは分からない。ただ、この変更によって作品の長さが大幅に長くなったことは間違いなく、事実、冗長と言える部分も少なからずある。必ずしもカメラに記録されていたことだけが真実とも思わない。けれど、こんなにも「とりとめのない」リアルなザ・ビートルズを観られる機会はおそらくほぼないということは断言できる。『ザ・ビートルズ:ゲット・バック』とはそんな50年以上の歳月を遡るタイムマシーンだ。
ドキュメンタリー作品『ザ・ビートルズ:Get Back』
公式サイト:Disney.jp/thebeatles
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