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ブライアン・ウィルソンの元弁護士は当時の医師にザ・ビーチ・ボーイズの“Kokomo”に参加できなかったことを「本当に後悔していた」と語っている。
ブライアン・ウィルソンは今年6月に呼吸停止で亡くなっている。享年82歳だった。亡くなる1年前、ブライアン・ウィルソンは認知症と診断されたために後見人制度下に置かれることとなっていた。
ブライアン・ウィルソンが後見人制度下に置かれるのはこの時が初めてではなく、ブライアン・ウィルソンの家族は人生、音楽、そして経済面で「不当な影響」を及ぼしたとして心理学者のユージン・ランディからウィルソンを引き離すように訴訟を起こしている。
今回、ブライアン・ウィルソンの元弁護士であるジョン・メイソンは1988年公開の映画『カクテル』にザ・ビーチ・ボーイズが提供した“Kokomo”に参加しないようにユージン・ランディが説き伏せていたと語っている。
「マイク・ラヴとカール・ウィルソンが私の事務所に来て、ブライアン・ウィルソンに言ったんです。『映画『カクテル』に曲を提供する機会があるんだ』ってね」とジョン・メイソンは『フォックス・ニュース』に語っている。
「トム・クルーズが出演する映画でした。素晴らしい話です。参加してもらいたいと思いましたし、ブライアン・ウィルソンも乗り気でした。『それはやってみたいね』と言っていたのです。しかし、夜遅くに電話がかかってきて、『やるべきじゃないな。ランディ先生にやるべきじゃないと言われたんだ』とブライアン・ウィルソンは言いました」
「“Kokomo”がリリースされると、ザ・ビーチ・ボーイズにとって最大のヒットとなり、おそらく今後もそれは変わらないでしょう。ブライアン・ウィルソンは“Kokomo”に参加しなかったことを本当に後悔していました」
「ブライアン・ウィルソンも私も曲を聴いて、『なんてことだ、これは機会を逃したのか?』と思いました」
ジョン・メイソンはユージン・ランディが曲に自分がクレジットされない限り、ブライアン・ウィルソンが参加することはないと言っていたとして、ザ・ビーチ・ボーイズはそれを断り、“Kokomo”はブライアン・ウィルソンの関与なしにリリースされたと語っている。「ブライアン・ウィルソンは身体は大きいけれど、心優しい天才でした。誤った決断を後悔して、より良い決断を求めて生きていました」
ユージン・ランディは1975年から1976年にかけてブライアン・ウィルソンがドラッグ依存症で衰弱した健康状態を改善するために24時間集中セラピープログラムに参加した時に出会っており、1982年から1992年まで主治医を務めている。
ブライアン・ウィルソンを更生させるために彼のあらゆる事柄に対する完全な管理権を要求したユージン・ランディの治療法は物議を醸すこととなっている。1989年にブライアン・ウィルソンの遺言が書き直され、ユージン・ランディが筆頭相続者に指定され、遺産の最大70%を相続することになったことで、後見人制度も成立することとなっていた。
ジョン・メイソンはその治療法について「ブライアン・ウィルソンが自分の人生に積極的に関わるようになるきっかけになった」という点で「良い」側面もあったと認めつつも次のように続けている。「良くなかったのはユージン・ランディ医師がブライアン・ウィルソンに代わって多くを求めるようになっていったことです。ブライアン・ウィルソンはユージン・ランディの担当者が同伴しない限り何をすることも許されませんでした」
「ブライアン・ウィルソンは精神的に弱っていました」とジョン・メイソンは続けている。「悲しく聞こえますが、ブライアン・ウィルソンは私によくこう言っていました。『脳を揚げられてしまったんだ。ドラッグをやり過ぎた』と。ブライアン・ウィルソンは朝、起こす人がいないと起きられませんでした。健康的な食べ物を用意しないと、まともな食事もできなかったのです」
1992年、サンタモニカ高等裁判所はユージン・ランディにブライアン・ウィルソンの人生に関与しないように命じて、「アーティストの事柄に関して特定の限定的な権限」を持つ独立した後見人を任命している。
ザ・ビーチ・ボーイズはブライアン・ウィルソンが参加する形で“Kokomo”のスペイン語版をレコーディングしている。
訃報を受けてポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、スティング、ブルース・スプリングスティーン、グリーン・デイのビリー・ジョー・アームストロングらはブライアン・ウィルソンに追悼の意を表している。
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