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レッド・ツェッペリンへの加入を断ったことで知られるヴォーカリストのテリー・リードが亡くなった。享年75歳だった。
テリー・リードの代理人は訃報を『ガーディアン』紙で発表している。死因については明らかにされていないが、『ガーディアン』紙はガンを含む様々な健康問題を抱えていたと報じている。
テリー・リードについては医療費を募るゴーファンドミーのページも立ち上げられていて、そこでは「入退院を繰り返し、治療と不安な状況に耐えています」として、秋に予定されていた6週間のツアーをキャンセルすることとなっていたと説明されている。
その後、アップデートでテリー・リードは「愛する妻のアネットと愛娘のケリーとホリーといった最も大切な人に囲まれて、穏やかに旅立った」という。
テリー・リードは「驚くべき勇気と揺るぎない楽観主義であらゆる困難に立ち向かった」とのことで、最期の日々も完治を信じて、数日前にはギターを弾くために起き上がっていたという。
テリー・リードはミュージシャンズ・ミュージシャンとして知られ、アレサ・フランクリンは1968年に次のように語ったことで知られている。「イングランドですごいのは3つだけね。ザ・ローリング・ストーンズ、ザ・ビートルズ、そしてテリー・リードよ」
テリー・リードはそのソウルフルな歌声から「スーパーラングス」というニックネームで呼ばれ、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルのフロントマンへのオファーもあったが、ソロ・キャリアに進むために断っている。
テリー・リードは10代前半からパフォーマンスを始め、地元ケンブリッジシャーのザ・レッドビーツやピーター・ジェイ&ザ・ジェイウォーカーズといったグループに参加している。16歳になる頃にはアイク&ティナ・ターナー、ザ・ヤードバーズと共にザ・ローリング・ストーンズのツアーでサポート・アクトを務め、ギタリストのジミー・ペイジの目に留まることとなっている。
ジミー・ペイジは自身がまとめようとしている新しいバンドに参加しないかと声をかけたが、テリー・リードは最終的に断っており、代わりにバンド・オブ・ジョイのシンガーであるロバート・プラントを紹介している。それに伴ってバンド・オブ・ジョイのジョン・ボーナムもレッド・ツェッペリンに加入している。
レッド・ツェッペリンのオファーを断ったことについてテリー・リードは昨年『ガーディアン』紙に自分名義のことをやるつもりだったと語っている。「バンドの半分に貢献したんだ。自分の役割はそれで十分だよ」
ロバート・プラントは訃報を受けて追悼の意を表しており、インスタグラムで次のように述べている。「彼がすべての始まりだった……すごいカリスマだった。彼の声、そのレンジ。彼の曲はあの気ままな時代を捉えていた」
「本当にスーパーラングスだった。彼は自分が断ることにした新しい世界に私を送り出してくれた。今は彼のアルバム『リヴァー』を聴いていて、戦友のことを思うと涙が出てくるんだ」
テリー・リードはリッチー・ブラックモアからディープ・パープルのリード・シンガーのオファーもあり、「とても光栄」としつつも、ソロ活動を続け、1968年にアルバム『バン、バン・ユーアー・テリー・リード』をリリースしている。
このデビュー・アルバムには14歳の時に書いた“Without Expression”も収録されており、ジョン・メレンキャンプ、REOスピードワゴン、ザ・ホリーズ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングもこの曲をカヴァーしている。
当時、急成長を遂げていたサイケデリック・ロック・シーンに深く関わっていたテリー・リードはサポート・アクトを務めるようになって、1969年にはフリートウッド・マックやクリームのツアーに参加し、ジミ・ヘンドリックスの近い友人ともなっている。
1973年にアトランティック・レコードのアーメット・アーティガンと契約したテリー・リードは『リヴァー』で批評家の評価を集めることになったが、1976年発表の『シード・オブ・メモリー』ではABCレコードに移籍しており、その後はボニー・レイット、ドン・ヘンリー、ジャクソン・ブラウンらとセッションを行っている。
テリー・リードは1991年にトレヴァー・ホーンがプロデューサーを務めた復帰作『ザ・ドライヴァー』をリリースしており、2016年には最後のアルバム『ジ・アザー・サイド・オブ・ザ・リヴァー』をリリースしている。
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