ノー・ウェイヴの伝説的ミュージシャンであるジェームス・チャンスが亡くなった。享年71歳だった。
訃報は兄弟のデヴィッド・シーグフリードによって発表されており、ジェームス・チャンスの公式フェイスブックに声明が掲載されている。声明によれば、本名をジェームス・アラン・シーグフリードというジェームス・チャンスはニューヨークのテレンス・カーディナル・クック医療センターで亡くなったという。
死因については明らかにされていないものの、デヴィッド・シーグフリードは「ここ数年間でジェームス・チャンスの健康状態は悪化していた」と述べている。
フェイスブックには長文が投稿されており、ジェームス・チャンスの生涯とキャリアを振り返るものとなっている。
ジェームス・チャンスは以前から体調を崩しており、友人や家族は「個人的な健康問題と新型コロナウイルスを巡る状況」のためにジェームス・チャンスを支援するゴーファンドミーを立ち上げている。
非公開の葬儀が友人と家族によって行われる予定で、公開の葬儀については後日発表される予定となっている。
『ブルックリン・ヴィーガン』によれば、二度目のゴーファンドミーのページはジェームス・チャンスが入院した後に昨年11月に立ち上げられている。そこでデヴィッド・シーグフリードは次のように述べている。「彼は非常に病弱で、体重は95ポンドまで落ちてしまいました。体力を回復させるために理学療法を受ける必要がありますが、そのために医療制度をどのように利用すればいいのか分かりません」
ジェームス・チャンスはパンク、ロック、ジャズ、ファンクを融合させたその音楽へのユニークなアプローチで知られていた。デス・イン・ミルウォーキーというバンドに在籍した後、ジェームス・チャンスはニューヨークに移って、1976年にフレーミング・ユースに加入し、その後、リディア・ランチとティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークスを結成している。1977年にザ・コントーションズを結成すると、ブライアン・イーノによるコンピレーション『ノー・ニューヨーク』に参加している。
ジェームス・チャンスの攻撃的で対立的な姿勢もあって、ジェームス・チャンスとバンドメンバーの軋轢のためにザ・コントーションズは1979年秋に解散している。2001年には短期間のライヴのために再結成を果たしている。ジェームス・チャンスはシカゴのバンドであるウォッチャーズとも活動していた。
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