レゲエ界のレジェンドにしてダブの巨匠であるリー・“スクラッチ”・ペリーが亡くなった。享年85歳だった。
ジャマイカ版『オブザーヴァー』紙によれば、本名をレインフォード・ヒュー・ペリーというリー・“スクラッチ”・ペリーは西ジャマイカのノエル・ホルムズ・ホスピタルで闘病生活を送っていたという。死因については明らかにされていない。
ジャマイカの首相であるアンドリュー・ホルネスはリー・“スクラッチ”・ペリーが亡くなったことを認めている。「愛情を込めてリー・“スクラッチ”・ペリーとして知られている伝説的レコード・プロデューサーにしてシンガーであるレインフォード・ヒュー・ペリーODの遺族、友人、ファンにお悔やみを申し上げます」とアンドリュー・ホルネスはツイートしている。
アンドリュー・ホルネスは次のように続けている。「間違いなくリー・“スクラッチ”・ペリーは音楽界隈に対する優れた貢献で今後も偲ばれることになるでしょう。彼の魂よ、安らかに」
My deep condolences to the family, friends, and fans of legendary record producer and singer, Rainford Hugh Perry OD, affectionately known as "Lee Scratch" Perry. pic.twitter.com/Eec2MEd6yC
— Andrew Holness (@AndrewHolnessJM) August 29, 2021
1936年にジャマイカの田舎で生まれたリー・“スクラッチ”・ペリーは1960年代初頭にキングストンに移住している。1984年の『NME』のインタヴューでリー・“スクラッチ”・ペリーは自身の幼少期について次のように語っている。「父親は通りで働いていて、母親は畑に出ていた。すごく貧しかったんだ。自分は学校に行ってたんだけど、何も学ばなかった。自分が学んだことはすべて自然からだった」
「学校を出たら、外での仕事以外にやることはなかった。きつい、きつい仕事だった。好きになれなかったよ。それで賭博をやり始めた。賭博を通して自分の考えを実践して、他人の考えを読むことを学んだ。これは自分にとってずっと役に立ったね」
リー・“スクラッチ”・ペリーは1950年代後半にレゲエ・スタジオ兼レーベルの「スタジオ・ワン」のクレメント・“コクソン”・ドッドにアシスタントとして雇われて、音楽のキャリアを始めている。彼はその後アーティストのスカウト、DJ、店長、レコーディング・アーティストなどを務めている。「スクラッチ」のニックネームは1965年発表の楽曲“The Chicken Scratch”から取られている。
クレメント・“コクソン”・ドッドとの確執から60年代中盤に彼はスタジオ・ワンを離れている。「コクソンは田舎の子どもにチャンスを与えたくなかったんだ。まったくね。彼は俺の曲をデルロイ・ウィルソンのような人に渡したんだ。自分にはクレジットも金も渡されることがなかった。ひどかったんだよ」と彼は1984年の『NME』のインタヴューで語っている。
リー・“スクラッチ”・ペリーはジョー・ギブズが手掛けるライバルのアマルガメイテッド・レコーズに移って、プロデューサーとの仕事で自身のレコーディング・キャリアを築いている。しかし、リー・“スクラッチ”・ペリーとジョー・ギブズの不和から、リー・“スクラッチ”・ペリーは1968年にアップセッター・レコーズを設立している。
リー・“スクラッチ”・ペリーは自身のレコーディング・スタジオであるブラック・アークを造って、キャリアが開花していくこととなる。ドラム・マシーンや他の機材で実験を行っていった彼は銃声やガラスの割れる音、動物の鳴き声などをサンプリングしている。彼は音源の向上のためにマスター音源にマリファナの煙を吹きかけたと言われている。
彼はレゲエの楽曲からダブ・バージョンを生み出した先駆者で、ベースを強調して、時にヴォーカルを取り除き、リバーブを追加して空間的なサウンドを生み出している。リー・“スクラッチ”・ペリーと彼のバック・バンドであるジ・アップセッターズは1970年代中盤の有名な楽曲にダブのサウンドを合わせている。その中にはマックス・ロメオの“War Ina Babylon”、ザ・ヘップトーンズの“Party Time”、ジュニア・マーヴィンの“Police & Thieves”などがあり、リー・“スクラッチ”・ペリーが共作者の“Police & Thieves”はザ・クラッシュによって『白い暴動』でカヴァーされている。ザ・クラッシュはシングル“Complete Control”のプロデューサーにリー・“スクラッチ”・ペリーを迎えている。
キャリアの初期においてリー・“スクラッチ”・ペリーはボブ・マーリーとも仕事をしており、『ソウル・レベルス』、『ソウル・レボリューション』といったアルバムや“Small Axe”、“Duppy Conqueror”、“Jah Live”、“Punky Reggae Party”、“Rastaman Live Up”といったシングルに参加している。「リー・“スクラッチ”・ペリーは父がより深く自分自身を見つめるのを助けてくれたんだ。彼は父のキャリアに役立ってくれたんだ」
しかし、バニー・ウェイラーはその関係についてあまり楽しいものではなかったと語っている。「音楽を演奏している間、彼はスタジオに座っているんだけどさ。そして、彼は俺たちを騙したんだ。彼とやったアルバムで金をもらったことはなかった。リー・“スクラッチ”・ペリーの無知さでたくさんの金を失ったんだ。彼を許すことはないね」
1978年発表の『リターン・オブ・ザ・スーパー・エイプ』以降、リー・“スクラッチ”・ペリーはより自宅スタジオで取り組むようになり、ブラック・アークは荒廃して、音楽が作られることは少なくなり、落書きだらけになったという。悪い精神に乗っ取られているとして被害妄想のリー・“スクラッチ”・ペリーは1983年にブラック・アークを焼き払っている。
リー・“スクラッチ”・ペリーはキャリアで1000以上の音源を制作しており、ビースティ・ボーイズ、ジュニア・マーヴィン、ジ・オーブ、マックス・ロメオらと仕事をしている。
彼は2002年発表のアルバム『ジャマイカンE.T.』でグラミー賞の最優秀レゲエ・アルバム賞を受賞しており、その他にも4回ノミネートされている。
リー・“スクラッチ”・ペリーはジャマイカで将校に値する国による勲章を受章している。
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