フォールズは、イギリスで最も過激で情熱的なバンドであり、ニュー・アルバムのヒットやウェンブリー・アリーナ公演を含む大規模なツアーが話題となっている。『NME』はこのバンドに密着し、南アメリカを手始めに世界征服していこうと奮闘する彼らを取材してみた。
コロンビアの首都であるボゴタは山のふもとにあり、高い木々や深い霧に覆われている。山の景色は息を飲むほどの美しさで、標高が2600メートルと高いため、空気は薄い。市街地は都会的で慌ただしさも感じられる。麻薬王だったパブロ・エスコバル率いるコカイン・カルテルが、殺人と誘拐によって貧民街を恐怖に陥れていた時代はそう遠くない過去だが、2015年現在のボゴタはまったく違う環境になっている。治安は良く、独自の活気ある文化と活発なパンク・コミュニティを持つ、フレンドリーな場所だ。しかしいまだに地元の人たちが使う、「パパイヤを渡すな」という意味の「no dar papaya」という言い回しは残っている。意味は簡単だ。面倒に巻き込まれたくなければ、目立たないようにしろということである。
フォールズは恐らく、この言い回しを知らないだろう。スゴ腕のドラマーであるジャック・ビーヴァンが、ボゴタの賑やかな通りで移動用のバンから勢い良く飛び出したことがあったのだ。YouTubeで観た、システム・オブ・ア・ダウンの“Chop Suey!”に合わせて鳴くヤギの真似をするためである。ジャック・ビーヴァンは「それならフォールズの曲に合わせて歌うヤギはいるのか?」と考え、「やってみないと分からない」と真似をしてみたという。
ジャック・ビーヴァンに対して公平に言うなれば、オックスフォードのインディーな博識家たちが南アメリカで目立たないようにするということ自体が不可能な話なのである。フォールズはイギリスでは大人気だが、ヒースロー空港で誰にも邪魔されず、プレタ・マンジェのサンドイッチを食べることぐらいはできる。それに対してコロンビアでは、フォールズはどこへ行ってもファンにもみくちゃにされるのだ。空港もホテルもファンだらけである。熱帯暴風雨に襲われている地域、ボゴタの繁華街であるチャピネロ地区にあるテアトロ・ロイヤルで公演をした後にも、バンドを待つ長蛇の列ができていた。その時は午後4時だったものの、それから4時間、ドアを開けることができなかった。結局メンバーは、さらに8時間後までステージに上がることはなかった。
フォールズ・マニアの気持ちは分からなくもない。この国の美しさには二面性があるし、10年かけて培ってきた根性あるサウンドは、バンド史上最高の切れ味を見せつつある。フォールズがリリースした通算4作目のアルバム『ホワット・ウェント・ダウン』はほぼ間違いなく、彼ら史上最大のメッセージになるはずだ。高速道路での玉突き事故の衝撃とまではいかなくとも、ワイドスクリーンいっぱいのギターの音と、非現実的なエレクトロの鼓動と、ゴツゴツしたロック特有の下品さを持つ熱量の高いインディー・ディスコがそれを表している。フォールズがイギリスの大物バンドの中でもエリート層に伸し上がったのはこのアルバムがきっかけといえる。2月にはウェンブリー公演を含む、彼ら至上最大規模のツアーも決定している。
フロントマンのヤニス・フィリッパケスによると、今回のツアーは「激しい感じになりそうだ」という。彼の故郷からは遠く離れた地での話になるものの、ヤニス・フィリッパケスはニヤニヤしながら「ステージに立って激しい演奏をして、強烈に、メチャクチャにやってやるんだ」と語っている。まずは南アメリカでのツアーの最初の日程として、テアトロ・ロイヤルにて公演が行われる。ハコが壊れてしまうのではないかと思うほどの熱狂的な4000人の観客が集まるのだ。最後の曲である興奮の塊のような“’Snake Oil”に向かって深夜まで突き進んでいき、観客の身体や手足が揺れ、ハコの興奮は最高潮に達する。イギリスで最も制御不能なパフォーマンスをするというフォールズの評判通りの流れである。そして涙を誘うクラシックな名曲“My Number”と“Red Sox Pugie”を演奏する前に、ヤニス・フィリッパケスが「(スペイン語で)こんばんは、ボゴダ!」と叫ぶのだ。
フォールズの勢いが詰まった新曲の話だが、アルバムに収録されているバラード曲“Give It All”のあたたかく、離れた土地で心動かされる響き(「ここで僕と一緒にいれたらいいのに。雨、そして谷のヤシの木を横目に……でも君は土砂降りの中、地下鉄の駅にたたずんでいる」)に対して、最新シングル曲の“Mountain At My Gates”では耳をつんざくような歌声がはじけている。
ショウの最後、ヤニス・フィリッパケスは観客の中にダイヴした。フォールズがステージを降り、会場が空になっても、100人かそこらのファンたちにとってはまだショウは終わっていなかったようで、外で出待ちをしていた。「フォールズ! フォールズ! フォールズ!」との歓声が起こる中、メンバーは午前3時半に帰ろうと試みていた。もしウェンブリーへの道のりがボゴタから始まるのだとしたら、最高のツアーの始まりと言えるかもしれない。
「音楽を演奏することだけ考えて、その他のことは何もかもどうでもいいと思っている輩にとってどんなに素晴らしいことが起きるのか、僕たちがその実例になっているんだと考えたいんだ」。ヤニス・フィリッパケスは、フォールズがアリーナを征服するようなタイプのバンドではないということを見抜いた最初の人物だ。これは、揃いも揃ってひょろひょろとして対称的な髪型をした無名の5人組が出した2007年のシングル“Hammer”から、今日の目がくらむようなアートカレッジ系のダンス・パンクに至るまでの話である。
それからというもの、ベースのウォルター・ジャーヴァース、キーボードのエドウィン・コングリーヴ、そしてギターのジミー・スミスによって完成されたフォールズは、壮大で都会的、そして聖歌のような趣を持ちながらも、メインストリームの栄光には走らないようなバンドへと成長した。ヤニス・フィリッパケスはこう語っている。「ここに来るまでに譲歩したり妥協したりしていたとしたら、それは恐ろしい話だっただろうなと思うね。それをやるためには、成功や批評、そして宣伝なんかを気にかけないといけないわけだから。そういう上辺のものは、僕たちが考える優先事項の中では低いところにあるんだ。いいレコードを作って、いいステージをやりたいだけなんだ。正しいパーティーをやって、正しいガールフレンドを作って、正しい服を着てって、そんなことが必要ないんだっていう指標に僕たちがなればいいと思ってる。」
フォールズが10年前に結成されたとき、彼らの目的は、ただ楽しんで、ホーム・パーティで演奏して、そのパーティを最後にはカオスで終わらせることくらいだった。ヤニス・フィリッパケスはかつて「ダンス嫌いな奴らをイラつかせて、そいつらのガールフレンドを奪ってやる」と言っていた。今ではその時には予想もしなかった、もっと素晴らしいことが起きている。
彼らの音楽には真の野心があった。不機嫌なマスロックのエクスぺリメンタリスト、エドモンド・フィッツジェラルドのメンバーとして何年も過ごしてきたヤニス・フィリッパケスとジャック・ビーヴァンは、ミニマリストでエクスぺリメンタリストであるスティーヴ・ライヒやバトルス、テクノやアフロビートにインスパイアされた曲を作りたがっていた。また、それだけでなく、ローカル・シーンをつまらなくさせる、音楽インテリ気取りをイラつかせる為に、あえて軽いポップな曲を作ったこともあった。これはロンドンのウェンブリー・アリーナでショウをする予定の、現在のフォールズとは違って見える。この問いかけに対しジミー・スミスは無表情に「うーん、ちょっと待って」と言い、「もしかしたら、エド・シーランだって初めは、スティーヴ・ライヒをパクるつもりだったかもよ」と語った。
フォールズは「奇妙」という言葉をよく使う。ヤニス・フィリッパケスはコロンビアでのライヴの翌朝、ファンの献身さと自分への過大な愛を目にして、この言葉を使うしかなかったといえよう。ホテルの外では前夜よりも多くのファンが待っていて、彼らに地元のお菓子や手紙や手作りのミサンガを手渡していた。なかにはヤニス・フィリッパケスの似顔絵を描いてきた少女さえいた。彼は具合が悪いにもかかわらず、愉し気に話し、写真撮影に応じていた。
数年前のヤニス・フィリッパケスであれば、この状況に苛立ったであろう。ギリシャ人の父と南アフリカ系のユダヤ・ウクライナ人の母の元に生まれたヤニス・フィリッパケスは、5歳の時にエーゲ海の島、カルパトス島からイギリスに移住した。彼の父は1年後、単身でギリシャに戻った。オックスフォードでの子供時代、周りの裕福な子供たちに馴染むことができず、孤独だったという。こうしたアウトサイダーとしての経験が、彼を対立的で不器用な大人へと成長させていった。「俺は常に不安や不満を抱いてた」、彼は『NME』に対してこう語っている。「人々に、何かを証明したかったんだ。それが何かはわからないけど」
ヤニス・フィリッパケスはこの不安を初期のフォールズ時代に表現している。2008年にバンドがデビュー・アルバム『アンチドーツ(解毒剤)』で売れ始めた際(快楽主義のティーンエージャー向けテレビ・ドラマである「スキンズ」にゲスト出演したり、雑誌のカヴァーを飾ったりしていた時期)は、「現実を直視したくなくて」酔っぱらっていたという。2010年には『ガーディアン』紙に対し次のように語っている。「まるで自分たちに値しない称賛の言葉をもらってるみたいだったよ」。彼はこの精神的な壁を乗り越えられたのだろうか? 「ヘッドライトを前にして、自分をウサギみたいに感じることはもうないかな」と答えている。「人々に、何かを証明したかったけど、それは実現できたんだ。今はいい気分さ。こんなこと、ずっと続くわけじゃないしね。だからもう抵抗を感じるのはやめようって思って」
とはいっても、フォールズの初期の時代はヤニス・フィリッパケスにとって辛い想い出ばかりではない。「みんなで貯金して買った英国郵便の古いバンに乗って、ツアーを回ったんだ。結局ジミーがスーパーの駐車場で壊しちゃったけどね」と笑う。「不自由な生活を送っていたよ。毎晩床の上に雑魚寝して、本当にそのバンで生活してた。当時は観客が10人以上いたら興奮していたよ」。彼いわく、これらの経験すべてがあるからこそ、現在のバンドの活動がもっとやり甲斐のあり、リアルなものになっているという。
翌日、フォールズはメデリンへ向かった。パーク・ノルテと呼ばれるテーマパークで行われるアフター・アワー・フェスティヴァル、「ブレークフェスト」のヘッドライナーを務めるためだ。彼らはこのステージでワイルドに振る舞った。ギターを宙に投げ飛ばし、積み上げられたスピーカーをよじ登り、マイクスタンドは発作的な激情で暴力的に床に蹴り飛ばされた。険なくらいヘヴィーな“What Went Down”のクライマックスでは、ヤニス・フィリッパケスは観客の波に飛び込み、ファンにチップをバラまいた。こんなにも常軌を逸したヒステリーは、通常なら刑務所暴動くらいでしか見られないだろう。すべてが終わると、メンバーは楽器を投げ捨て、ステージから去っていった。出口には甲高い声を上げて彼らを待つファンたちがいる。ヤニス・フィリッパケスはまだステージに残っていた。観客の歓声に耳を澄ましていた。汗が足元に落ちていく。呼吸をするたび、胸が隆起する。明日、フォールズはもう一度、同じステージに立つ。
ヤニス・フィリッパケスでなければできなかったかもしれない。この29歳の男は数週間もの間、喉頭炎と思われる症状と戦っていた。ショウの後、汚れたTシャツを着た彼は、楽屋で前かがみに座っていた。「すげー辛い」ジレンマについて考えていた。以前に比べれば、今は良い方だ。ジャック・ビーヴァンに言わせれば、2週間前はまるで「気管切開したあとのフィリップ・ミッチェルみたい」な声だったという。しかし、今も調子が良いわけではない。「本当にクソみたいな状況だよ」。ヤニス・フィリッパケスはため息をついた。
「通常、ステージに立つときは、自分が無敵で不滅に感じるんだ。そういう張りつめた状態になるんだよ。まるで激情が缶詰めにされたみたいな、そういう状態に捕らわれるんだ。狂ってるけど、でも、ショウはロックンロールであるべきだと思う。観客は俺らが興奮状態になっているのを見たいし、それを期待している。オイスターカード(ロンドン市内の公共交通機関で使用されているICカード)をチャージしている俺なんて見たくないんだよ」
フォールズは、次のような選択を迫られている。ペルー、ブラジル、アルゼンチン、チリ、そしてメキシコのファンを落胆させても、ロンドンに帰り、ヤニスが復活するのを待つのか? それとも痛みに耐えて、医者の命令を無視し、声帯を永遠に痛めつけてUKでのツアーをキャンセルするリスクを侵すのか?
フォールズのキャリアにおいて初めて、彼らはツアーをキャンセルした。「マジでクソだよ」とヤニス・フィリッパケスはつぶやく。しかし、彼は前を向くことを忘れてはいない。
「ウェンブリー(Wembley)は俺にとってはただの7文字の単語だよ」とヤニス・フィリッパケスは主張する。「だけど、これが何かを意味していることはわかってる。このショウを楽しみにはしているよ。素晴らしいショウになると思う。アレクサンドラ・パレスで演奏した時もバンドがビッグになった実感があったけど、ウェンブリーは次のステップって感じかな。アリーナで演奏することに関して、確かに不安はあるよ。しばらくの間、俺の中のパンク精神が罪悪感を抱いて、『俺らのなかに眠るエネルギーをどうやって昇華しよう?』って考えていたよ。ただ、うぬぼれって思ってほしくないんだけど、ステージに立ったら、何かすっげえ特別なショウができるだろうって思うんだ」1つ目の駅、ウェンブリー。そして世界へ。もしかしたら、そのうちYouTubeで、彼らの曲を歌うヤギさえ見られるかもしれないよ。
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