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彼のゆっくりとしたメロディアスなベースラインはアルバム『ザ・ストーン・ローゼズ』で最初に耳にするもので、“‘I Wanna Be Adored”のコズミックなオープニングの中を進んでいく。あのアルバムで最後に覚えているもの――“I Am The Resurrection”での陶酔感あふれるサイケデリックなロックのコーダを牽引していたものもそれだった。ジョン・スクワイアのギターワークに絡みつくように、それはそれはザ・ストーン・ローゼズの旋回するグルーヴの核であり、マッドチェスター・ムーブメント全体を揺らす鼓動となっていた。

11月20日、63歳で亡くなったゲイリー・“マニ”・マウンフィールドはベース・ヒーローの世界でも稀有な存在だった。1989年発表の伝説的なデビュー・アルバムをメロディーと機知に富んだ演奏で支えたのと同じように、その魅惑的で影響を与えるベースラインによって彼はシーンを定義してみせた。

マンチェスターの主要人物だったマニは、寡黙で不機嫌で困惑している同世代のベーシストたちとは一線を画す存在で、バギー・シーンにおける親しみやすい人物でありながら、同世代で最も尊敬を集めるベーシストの一人となった。1996年にザ・ストーン・ローゼズが解散した後、プライマル・スクリームに加入したマニは1997年発表の『ヴァニシング・ポイント』、2000年発表の『エクスターミネーター』で、評価を集めたフューチャー・ロックの担い手としてグループの核となった。この二つのバンドを渡り歩いたことで、彼はオアシスにとって応援する存在でもありながら、革新を求める存在ともなり、90年代以降の音楽界において時代を跨いで愛される存在となった。

1962年にマンチェスターのクランプサルに生まれたマニは、ラシュルムにあるローマ・カトリックのザヴェリアン・カレッジに在籍していたが、16歳の時に退学しており、そこからは1980年代初頭のマンチェスターの音楽シーンに巻き込まれていくことになった。

1981年、マニはジョン・スクワイア、シンガー/ギタリストのアンディ・カズンズと共にザ・ファイアサイド・チャップスに加入しており、ウォーターフロントに改名して、1983年にイアン・ブラウンが加入した時にはザ・ストーン・ローゼズになりかけることとなった。しかし、バンドは失敗に終わり、解散することとなり、ゲイリー・“マニ”・マウンフィールドはクリント・ブーンと共にザ・ミル(ライヴの時はザ・ハングリー・ソックス名義だった)で活動しており、その後、クリント・ブーンはすぐにインスパイラル・カーペッツを結成することとなる。一方、マニのいないザ・ストーン・ローゼズは“Sally Cinnamon”のようなジャングリーなインディ・ポップで地元では成功を収めていた。

しかし、1987年6月、ベーシストのピート・ガードナーとロブ・ハンプソンが相次いで脱退したことを受けて、ゲイリー・“マニ”・マウンフィールドは後任として加入している。彼の加入によりザ・ストーン・ローゼズの音楽のトーンと深みは、台頭しつつあったダンス・シーンの弾力性のあるグルーヴと、インディ・ロックの不定形なメロディックさを同時に兼ね備えたサウンドへと瞬く間に進化を遂げていった。これがザ・ストーン・ローゼズをバギー・シーンにおいて決定的な存在にすることになった。「マニが入って、ほぼ一夜にしてバンドが変わったんだ」とイアン・ブラウンは語っている。「まったく違うグルーヴになった。すぐに、すべてがうまく収まることになったんだ」

重厚かつメロディアスなマニの魅惑的なベースラインはブレイクスルーとなった“Elephant Stone”、“Made Of Stone”、“She Bangs The Drums”といった楽曲において基盤となりつつ、しばしば推進力にもなった。また、“Fools Gold”のような重心の低いファンクへの進化も支えることになった。“Fools Gold”は80年代後半のダンス・ロック・シーン全体を4分間に凝縮したと言っても過言ではない。

デビュー・アルバムが全英チャートでトップ5入りを果たし、「バギー世代のウッドストック」と言われた1990年のスパイク・アイランドはザ・ストーン・ローゼズにとってカルチャー的な戴冠式となり、1990年発表の“One Love”以降のシングルを数年間リリースできなくなったレーベルであるシルヴァートーンとの法廷闘争を経て、1994年のセカンド・アルバム『セカンド・カミング』ではマニの密度の高いファンキーなベースが大きな柱となった。それ以外ではこのアルバムはジョン・スクワイアのブルース・ロック色が強く反映されることになった。その後の確執で、ドラマーのアラン・“レニ”・ジョンとジョン・スクワイアは脱退することとなり、1996年のレディング・フェスティバルでのヘッドライナーのステージも不評を買ったことで、イアン・ブラウンにとってゲイリー・“マニ”・マウンフィールドは唯一の関係の続く盟友となった。

1990年代のオルタナティヴ・ロック界で人気を博したゲイリー・“マニ”・マウンフィールドはザ・ストーン・ローゼズのライヴを見たことがオアシス結成のきっかけになったギャラガー兄弟からも崇拝されていた。そして、マニが加入を希望するわずか3つのバンド(他の2つはジーザス&メリー・チェインとオアシス)のうちの1つ、プライマル・スクリームに加わることとなっている。

幸運なことにマニが加入したちょうどその頃、プライマル・スクリームは1994年発表の『ギヴ・アウト・バット・ドント・ギヴ・アップ』のカントリー・ブルース時代から脱却し、ダークで実験的なダンス・ロックへと大きく飛躍しようとしていた。この時期にプライマル・スクリームは1990年発表の『スクリーマデリカ』に続いて90年代を代表するバンドの一つとして再評価されることとなり、ゲイリー・“マニ”・マウンフィールドの明るい姿勢と音楽的なエネルギーは、『ギヴ・アウト・バット・ドント・ギヴ・アップ』での落胆とドラッグ漬けの体験の後、解散の噂が絶えなかったバンドを復活させる一助となった。

『エクスターミネーター』という実験的ロックの傑作や2006年発表の『ライオット・シティ・ブルース』というブルース・ロックのリバイバル作など、プライマル・スクリームでの15年間と5枚のアルバムにおいて、マニはフロントマンのボビー・ギレスピーの右腕として活躍する一方で、ザ・スミスのアンディ・ルークとヘイヴンのゲイリー・ブリッグス、ニュー・オーダーのピーター・フックと共にスーパーグループのフリーベースとして活動し、オーシャン・カラー・シーンのツアーにも参加して、イアン・ブラウンのソロ公演にもゲスト参加している。2011年、ザ・ストーン・ローゼズに復帰するためにマニはプライマル・スクリームを脱退しており、2017年に解散するまでザ・ストーン・ローゼズはスタジアム公演を行い、フェスティバルのヘッドライナーを務めている。

2026年9月に始まるトークショーによるツアー「アン・イヴニング・ウィズ・ゲイリー・“マニ”・マウンフィールド」を発表してから1週間も経たない内にマニの訃報は兄弟のグレッグによってオンラインで発表されることになった。グレッグはマニが2023年に癌で亡くなった双子の息子の母親である妻のイメルダと再会することになるだろうとも述べている。彼のグルーヴは今後の世代にも伝播し続けるだろう。その功績は石でできている(made of stone)のだから。

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