作家のデヴィッド・バックリーは、デヴィッド・ボウイの生涯と彼の作品を長年研究し、『Strange Fascination: David Bowie, The Definitive Story』や『The Complete Guide To The Music Of David Bowie』などの書籍を刊行している。デヴィッド・ボウイが亡くなってから1ヵ月以上が経った今、彼自身のデヴィッド・ボウイとの交流やファンを襲った深い悲しみを回想している。
1月11日に世界中に知れ渡ったデヴィッド・ボウイ逝去のニュースは、私にとっても、他の多くの人たちにとっても、文化的に私たちを定義づけた瞬間だった。多くの死亡記事の中で、デヴィッド・ボウイは「ロックスター」と表記されたが、その書き方は曖昧かつ失礼である。なぜなら、彼はそれ以上の存在だからだ。歌手であり、作家であり、ミュージシャンであり、プロデューサーであり、デザイナーであり、俳優であり、絵描きであり、ビデオ・アーティストであり、パフォーマーであり、企業家でもあった。また、近しい人や彼を崇拝する数多くの人にとっては友人でもあった。彼は自由や冒険、そして慣習からの脱却を象徴する存在だった。私は彼がいたからこそ、ウィリアム・S・バロウズ、イギー・ポップ、歌舞伎座、ニコラス・ローグ、アーケイド・ファイアー、アンソニー・ニューリー、ノイ!を知ることができた。インターネットが普及する前は、作家のポール・モーリーが言ったように、デヴィッド・ボウイが一人でグーグルの検索エンジンのような役割を果たしていた。
デヴィッド・ボウイには、常に素晴らしく賢く聡明なファンがついていた(信じ難いと思うなら、こちらの記事を見てほしい。https://yougov.co.uk/news/2016/01/11/david-bowie-voice-spoke-outsider-everyone/)。彼のファンはいつも特別な思いを抱き、大衆文化の中で巨大なカルトを形成した。記者、ミュージシャン、政治家、そして宇宙飛行士から、相次ぐトリビュートが捧げられたことからも、デヴィッド・ボウイが常に崇拝されていたことは明らかであろう。そうでなければ……。
1980年代後半から1990年代前半、私はリバプール大学の博士課程の学生だった。当時、デヴィッド・ボウイに関する博士論文を書いていると言うと、非難の目で見られたり、冗談ととられることもあった。家族以外に若い頃に影響を受けた人物にデヴィッド・ボウイの名前を挙げると、懐疑的で奇妙なものを見るような視線を向けられた。特に研究としてポピュラー音楽を真剣に受け止めることは、大いに馬鹿げていると思われていた。デヴィッド・ボウイを研究対象にすることは多くの人にとっては信じ難かったのだろう。彼は馬鹿げたショック商法を使う、ただの目立ちたがり屋か、中心となる感情的な核を持たない音楽泥棒か、ペテン師だったのだろうか? いずれにせよ当時の彼は、もう終わったと思われていたのかもしれない。
1990年代初めには、デヴィッド・ボウイは公然と嘲りの対象になっていた。『メロディー・メイカー』誌は、ティン・マシーンのライヴ・アルバム『ティン・マシーン・ライヴ Oy Vey Baby』をそれほど評価しておらず、アルバムとその共同製作者を閉塞的とした。「この時、ついに彼はすっかりアーティストとして存在することをやめた。それはただ死ぬということだけでなく、後世の人たちが確実に彼の存在を知ることがないということでもある」
論文を書籍化しようとする過程(ほぼ5年かかった作業である)で、私の原稿は19者もの出版社から拒否された。もちろん原因はいろいろ考えられる。書き方が商業向けでなかったかもしれないし、洗練されていなかったのかもしれないが、真の原因はデヴィッド・ボウイそのものにあった。ある編集者は次のように書いてきた。「ボウイになんてまったく興味がないね」また別の編集者はこう答えている。「ボウイが過去5年間にやってきたこと以上に何かおもしろいことをするまで待たないと。今のままじゃ乗り気になれないな」
しかし、私はこれまでデヴィッド・ボウイの世界に浸ってきた。周囲から叩かれた時もありはしたが、やめるつもりは毛頭なかった。彼のかつての仲間たち(全員ではないが)の多くは、私がインタヴューしたいと言うと快く引き受けてくれた。1970年代初めにデヴィッド・ボウイのプロデューサーを務めていたケン・スコットと、ピアニストのマイク・ガーソンが膨大な時間を提供してくれたおかげで、私はメディアが作り上げたデヴィッド・ボウイとはかけ離れたボウイ像を徐々に形作っていった。マイク・ガーソンは彼のことを「天才」と呼び、ケン・スコットは、デヴィッド・ボウイが最初の1テイクで音程のズレなく完璧なヴォーカルを披露した話を語ってくれた。そして芸術の分野での知人や仲間たちからの話を聞くことで、彼の文化的な預言者としての人物像をも形作ることができた。ポピュラー音楽において、他の追随を許さない先見的な世才を持つデヴィッド・ボウイ像である。
私はデヴィッド・ボウイ自身にもインタヴューを申し込んだ。返事は来なかったものの、彼が私の存在を知っているのはわかっていた。さらに、私は『オムニバス・プレス』誌の編集長、クリス・チャールズワースによるボウイ作品に対する消費者ガイドの執筆を依頼されていた。UKの広報から電話をもらい、デヴィッド・ボウイがその本を気に入っていると聞かされた。『The Complete Guide To The Music Of David Bowie』はその後2度改訂され、アルバム『アースリング』や『アワーズ』の販売促進のためのレコード会社のツールとなった。アナウンサーのマーク・ライリーは、後にボウイ直筆のサインが入った1冊を私にくれた。その時の私は幸せの絶頂にいるスペース・ボーイだった。
1998年には、ヴァージン・ブックスが私の書いた伝記『Strange Fascination: David Bowie, The Definitive Story』の権利を手に入れた。同年のクリスマス休暇中に、デヴィッド・ボウイが彼のプロデューサーであるトニー・ヴィスコンティにインタヴューする機会を与えてくれた。トニーと私はメールを通じて長々とやり取りをした。トニーもデヴィッド・ボウイもその後議論の的となったアルバム『ロウ』や『ヒーローズ』といった遺産に誇りを持っていることは明白だった。この時点まで、デヴィッド・ボウイといえば『ハンキー・ドリー』、『ジギー・スターダスト』やその後の『ステイション・トゥ・ステイション』のアルバムで定義されることが多かったが、その意見は今や崩壊し、彼を定義づける音楽の中心はフランスやドイツ・ベルリンでの驚くほど溢れ出る創作意欲の結果となって表れたのだ。
しかしながら、「ボウイの世界」は永くとどまりすぎるにはそれほど心地いいものではない。誇大な称賛と感謝と共に訪れるのは失望と怒りだ。それはインタヴューの最中に現れる。金銭的な不一致やアーティストならではの不満、とあるかつてのミュージシャンや友人との人間関係、内輪の話など、私は忠実に記す義務を感じていた。原稿を読んだデヴィッド・ボウイは、このような部分を差し替えるように言い、私は同意した。彼はさらに今後のインタヴューでこの本について言及したり推薦したりすると言ってくれた。しかし、厄介かつ満足のいかない交渉が起きてしまったので彼は手を引いてしまった。これは私の生涯で最も失望した出来事のひとつだ。それから少なくとも2年間、私はデヴィッド・ボウイの音楽を聴くことをやめた。
この機会を失ったことで、私の中のある部分はショックを受けていた。その後、私は彼の4つのCDジャケットの解説とアルバム『デヴィッド・ボウイ・ベスト』のプレスノートを書き、『モジョ』誌のライターをやりながらデヴィッド・ボウイの仲間と連絡を取っていた。マーク・プラティ、リーヴス・ガブレルス、カルロス・アロマー、ポール・バックマスター、マイク・ガーソン、アール・スリックをはじめ多数の人物がいた。1973年、当時16歳のテープ・オペレーターだったアンディ・モリスが、『ダイアモンドの犬』の制作秘話やデヴィッド・ボウイが彼に寝床を提供し、ボウイ邸で騒々しいクリスマス・パーティーを開き、スターマンに扮したボウイがヤドリギの下で男女構わずキスしていた様子を教えてくれた。彼が曲作りをやめた10年で、世界は失ったものを真剣に目を向け始めていた。ボウイは2枚のアルバム『ザ・ネクスト・デイ』と『★(ブラックスター)』で舞い戻ってきた。そして、その後永遠に姿を消してしまった。あまりにも突然すぎて非常に耐え難い出来事だ。
彼が亡くなったという知らせは私の甥のピーターから電話で聞いた。私の家族や多くの友人もデヴィッド・ボウイのファンだ。彼らのサポートや私がオンラインで知り合った数多くのファンの支えがなければ、私はもっとひどい大打撃を受けていただろう。『オムニバス・プレス』誌の編集長であるクリス・チャールズワースが彼の死を受けて日曜に電話をくれ、私たちは話した。彼はかつてRCAレコードの広報担当を務めていて、私の本以外にもボウイに関する書籍を何冊か出版していたそうだ。さらに、彼はデヴィッド・ボウイの死についてインタヴューを受けた最初の英国人記者だった。月曜朝の彼の声のトーンが私たちの思いをありのままに伝え、デヴィッド・ボウイの死に深い悲しみとショックを受けたと同時に、彼が遺した偉大な功績を語っていた。ジェレミー・ヴァインはBBCの追悼特集で『Strange Fascination: David Bowie, The Definitive Story』からの一節を引用した。また、『インディペンデント』誌は巻頭の最初のページで私が書いた伝記の一節を引用していた。「彼は、同等の人物よりも多くの人の生活に浸透し、それを変えた」。彼が亡くなった週、私は一切の取材を断った。なぜなら兄弟の死についてメディアから取材を受けるような気分だったからだ。偶然の一致なのかもしれないが、彼が亡くなった日は、私の両親の葬儀を行ってからちょうど2年目の日だ。1月10日は確実に忘れてはならない日である。パブリック・バンク・ホリデーだと? 1月10日は毎年「デヴィッド・ボウイの日」とすべきだ。
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