プリンスの代わりはいない。正真正銘オリジナルな彼は、単にファンクやソウル、ダンス・ミュージックの改革者だというのではなく、歴史に名を残す、偉大すぎるロック・スターの1人だった。そんな彼の輝かしい10の瞬間を振り返ってみよう。
彼によって猥褻なペアレンタル・アドヴァイザリー・ステッカーが発明された時
あの「まあなんてこのアルバムはお下品なのかしら」のステッカーは、プリンスの非常に卑猥な作品によって生み出された。このステッカーは1985年にアメリカで導入され、その原因となったのはプリンスの“Darling Nikki”における自慰行為への言及であり、これをある保護者活動の団体が嫌ったのだ。きっかけはこの団体の創始者であるティッパー・ゴアが、自身の幼い娘がこの曲を聴いていたことだった。
彼が1つのシンボル・マークになった時
1993年、当時プリンスは、もうそれ以上プリンスと呼ばれることを求めず、新しいシンボルに自分の名前を変えることを決意した。そのシンボルは、どこかにありそうな古いシンボルではなく、彼自身が作り出した、男性と女性のシンボルを巧みに組み合わせたものだった。実に笑えるのだが、これにより彼のレコード会社は世界中の音楽雑誌へ向けて、彼らがこのシンボル・マークを実際に印刷できるよう、フロッピー・ディスクの山を発送しなくてはならなくなった。
巨大な嵐の中、スーパーボウルで大成功をおさめた時
2007年のスーパーボウルのプリンスのハーフタイム・ショウはおそらく過去最高のハーフタイム・ショウだった。プリンスのシンボルマークを形どったステージの上を闊歩しながら、ステージ上では花火が打ちあがり、プリンスはクイーンとフー・ファイターズのカヴァーを演奏。そして最後に“Purple Rain”を演奏し、華やかなフィナーレを飾った。
そのハーフタイム・ショウの模様はこちらから。
悪だという理由で50万枚のアルバムをリコールした時
1987年にプリンスはファンクのみのアルバム『ブラック・アルバム』をリリースする予定だったが、霊的啓示のようなものがあったため、プリンスはそのアルバムを悪だと思い込み、発売1週間前に、すでに作られていた50万枚のアルバムをリコールした。霊的啓示にしろ、エクスタシーの影響下だったにしろ、プリンスはそのアルバムを最悪なものと決め付けた。結局、そのアルバムは1994年にリリースされた。
ロリポップでセクシーポーズを取った時
プリンスがレディオヘッドの“Creep”を2008年のコーチェラでカヴァーした時
これにはやられた。そのライヴの模様はこちらから。
彼がこのように立っている時
RIP pic.twitter.com/jRxeS8BEdd
— Slash (@Slash) April 21, 2016
アルバムを基に実際に映画を製作した時
1984年の主演映画『パープル・レイン』はいまだに古典的な名作だ。早速観てほしい。そして、パープル色の涙を流そう。
映画『パープル・レイン』の予告編はこちらから。
NMEを自宅地下でのパーティーに招待してくれた時
2009年、プリンスはNMEをペイズリー・パークの自宅とスタジオに招待してくれた。「私たちは左右両側にブルーに照らされた廊下を通りながら、改良されたバイクがしまってある前面がガラス張りの部屋のそばまで歩き、恐れかしこまっていた。そのバイクは映画『パープル・レイン』に出てくるものに似ていたポカンと見つめながら、私たちはすり足でトルコカーペットが敷かれた薄暗い部屋に入った。そこで私たちはフルバンド演奏のプライベートなギグでもてなされ、(本当のこと)、ゲスト・ヴォーカルはアニタ・ベイカーだった。
彼が数々のギター・ヒーローたちと競演してステージを席巻した時
2004年のロックの殿堂入り式典で、プリンスは、トム・ペティやジェフ・リン、スティーヴ・ウィンウッドらと共に、ジョージ・ハリスンに捧げる“While My Guitar Gently Weeps”を披露した。その彼のあまりに華麗なギター・ソロは今なお伝説として語り継がれるものになったと言っていいだろう。
広告 【独占配信】エミー賞®史上最多18部門受賞の歴史的快挙!真田広之主演&プロデュース「SHOGUN 将軍」をディズニープラスで見る
Copyright © 2024 NME Networks Media Limited. NME is a registered trademark of NME Networks Media Limited being used under licence.